Junの英語学習ブログー英語通訳・翻訳・ガイド・講師ー

日々の仕事や自分の英語学習について、英語学習経験に基づく英語力向上・資格取得お役立ち情報

東日本大震災の被災地で通訳をして経験したこと・考えたこと 1 体験談

今日は、7年前東日本大震災が起きた日です。岩手県在住の私は、震災直後から海外の記者さんに同行して通訳の仕事をする機会が、何度かありました。その時に、記者さんと一緒に、かなり多くの被災地を回り、被災者の方々のお話を聞きました。悲しくて聞いているのがつらくなる話や、逆に勇気が湧いてくる話、今後の教訓になるような話も色々聞きました。1か月間、あまりにも色々な話を聞いて、気が滅入ってきてしまい、当時よく書いていたミクシーの方に記録を付けることで、なんとか気持ちを保っていました。

 

最初に行ったのは、3月13日、まだかなり揺れがあった時の事でした。最初は、仙台方面。記者さんの希望は南三陸陸前高田とのことでしたが、行くのが難しいということで、仙台方面の海岸沿いの都市に行くことになりました。タクシーでいくと、5万円以上かかるということで、以前通訳をしていた会社で親しくなった方にお願いして、車を出してもらいました(もちろんお礼は記者さんの方から支払っていただきました)。ちょうど会社も休みということで、快く引き受けてくださいました。お昼ごろ盛岡市を出て、多賀城市まで5時間くらいかかりました。多賀城で取材した後、仙台で記者さんたちとはお別れしましたが、宿泊先を見つけるのが大変ではないかと心配でした。すると、補助電源があったホテルが1つだけ開いていて、そこになんとか泊まらせてもらうことができたようでした。うちに付いたら、もう11時近くなっていました。

 

1日おいて15日にも、通訳が必要という連絡が入り、フランスとブラジルの記者さんと一緒に、陸前高田に行きました。この時には、陸前高田をはじめ、大船渡、気仙沼などにも向かいましたが、避難所を二か所訪ねました。それ以降4月末まで、取材の方々について、釜石、南三陸、大槌、宮古など、様々な沿岸の被災地に行きました。また、被災地の後方支援に重要な役割を果たした遠野市にも、何度か仕事で伺い、貴重なお話を聞かせていただくことができました。震災から1か月間の通訳の仕事の際には、とにかくこの現状を伝えて欲しいという思いもあり、通訳料は通常の料金よりかなり割安な金額で引き受けました。

 

それから後も、震災復興の視察団やインドネシアなどの津波の跡の対処の仕方を研究に来た人々などと共に、何度か通訳として被災地を訪ねる機会がありました。範囲もさらに広がり、久慈、譜代村、いわき、福島第一原発付近の町などたくさんの被災地を訪ねました。また、所属するガイド団体の岩手ひらいずみ通訳ガイドの会に、NGO団体から通訳の要請の連絡が入り、チームを組んでしばらく宮古を拠点に通訳をみんなで行ったこともありました。日本の外資系企業の有志の方々が、ボランティアに行った帰りに平泉によっていったこともあり、その際にガイドを担当したことがあります。

 

ミクシーはしばらくの間使っていなかったので、入り方を忘れてしまい、書いたものが見られなくなってしまっています。これだけ多くの被災地を、直後から最近まで継続してみる機会があったのは、もしかして貴重な経験かもしれないので、その時に聞いた話や、考えたことなどを書ける範囲で書いて、記録に残しておきたいと思います。主に、震災後1か月くらいの間に経験したことを書きたいと思います。もしかすると読むと思い出して気分を害する方もいるかもしれません。もしそういう方がいたら、ここから後は読まないでいただければと思います。

 

13日は、フランスのラジオの記者さんと、東欧の方出身のカメラマンの方が、盛岡の国際交流協会に来てるので、通訳をお願いしたいという連絡が入り、駅前のアイーナというビルに行きました。最初に、新幹線が止まって帰れなくなった方々や、自宅に何等かの被害があっていられなくなった方々が、アイーナのロビーに避難していたので、午前中その方々から話を聞き、それから、仙台に行きたいということで、上のようないきさつで、多賀城に向かいました。余震や、道路状況の悪さから、多賀城まで車で5時間以上かかりました。たしか12時過ぎ頃盛岡を出発したと思いますが、到着したのは5時頃でした。普通だったら、高速を使って2時間かからずに到着できるのではないかと思います。途中、コンビニに寄りましたが、棚には商品がほとんどありませんでした。飲み物だけはゲットできたと思います。

多賀城に付くと、ある時点からいきなりがれきが増えて、風景が変わりました他の被災地も同じように、あるところまでは普通なのですが、突然、がれきが表れて目の前の光景が変わってしまうのでした。がれきが多くなった中を進むと、おびただしい数の車が目に入るようになりました。会社とか商店の駐車場に3,4台積み重なっているもの、ビルの4回くらいのところの窓に突き刺さったままのものなど、とにかく車が転がっているのと、道の脇に積み重なったがれきが印象に残りました。しばらく行くと、自衛隊が片付け作業と、おそらく遺体の捜索作業をしているのが目に入りました。ある地点まで行くと、車で行けなくなったので、写真を撮ったり周辺の人を探すなどして取材をしましたが、付近には人があまりいないようでした。ほとんどの家が住めなくなっているので、避難所にいるものと思われました。そういう状況だったので、インタビューはほとんどできませんでしたが、写真は撮れたようで、ラジオの方の記者さんは、明日仙台でまた取材を続けたい、と話していました。この時、東欧のカメラマンの方が、「私は、サラエボで戦争の取材をしたことがあるが、今回はその時と同じくらいひどい。」というような話をしていたのが印象に残っています。

多賀城から仙台に向かいましたが、そこで泊まれるところがあるのかどうか、それが不安でしたが、1件、暗くなった町の中で電気がついているホテルを見つけました。東横インだったと思いますが、補助電源を持っていたようで唯一普通通りの営業ができているようでした。朝食も少しですが提供できているようで、この時に、非常時に備えておくことの大切さがわかりました。盛岡でも、こちらのホテルは開いていました。うちはまだ停電していた時だと思うので、これはほんとに備えがよかった、と言えると思います。また、道路沿いのレストランが1件だけまともに営業していて(混んでました)、なんとか夕食を取ることができました。通常よりももちろん少ないメニューでしたが、それでも、ありがたかったことを思い出します。たしか、盛岡を出てからは、あまり何も食べていなかったように思います。

 

翌日、登録している地元の通訳エージェントから、通訳が必要としている記者さんがいるので、県庁に行って欲しい、という連絡が入りました。そこでは取材の車の許可証(プレスの証明書類のようなものがないと、ガソリンの供給ができなかったり、入っていけない道路があった)の取得の通訳を手伝い翌朝早くに駅前のホテル前で待ち合わせして、その日は別れました。この日までには、盛岡市は停電が解消され電気が通っていたと思います。ブラジルとフランスの記者さんで、2人とも女性でした。

翌朝早くにホテルの前で待ち合わせして、被災地に向かいました。沿岸の地域に行って、避難所の取材もしたい、という希望があり、まずは陸前高田に向かってみることにしました。この時のタクシーの運転手さんが、偶然ですが、元自衛官だった方でした。記者も通訳も女性だったので、なんとなく頼もしい感じがしました。自衛隊の予備軍のような制度に登録していて、いざ呼び出しがあったら、駆け付けるつもりだ、というお話をされていました。やはり食事がとれない可能性があったので、コンビニに立ち寄りました。やはりあまり商品がありませんでしたが、おせんべいなど日持ちのするものが結構売っていたので、自分たちの分と避難所への差し入れも購入しました。また、おにぎりが少し売っていたので、それを昼食用に購入しました。私は、生理用品を避難所の救援物資として持っていきました。

途中、道が悪すぎて封鎖になっているところなどもあり、やはりちょっと時間がかかりましたが、陸前高田までたしか3キロくらい手前に差し掛かったところだと思います。いきなり、がれきが目に入り始めました。周りの家屋には壊れているものもみられるようになりましたが、ほんの少し高いところにあったために、まったく影響がないというようなお宅もあり、「こんなほんの少しの違いが、運命を分けるんだろうか?」と思ったことを思い出します。少し進んで林の中の道から市街地に入ると、市街地一面が、がれきに覆われていました。本当に信じられない光景で、車はもう入れない状態なので、少し歩いて行ってみることにしたら、やはり自衛隊員の方々がいて、遺体の捜索をしていました。ついさっき発見されたされたのか、青いビニールシートがかけられた遺体が右の歩道橋の下においてありました。恐ろしくなりましたが、こんなことではいけないと、なんとか気持ちを立て直しました。少し進むと、大きな船が陸に打ち上げられているのが見えました。記者さんたちも、「こんなに大きな船が、こんなに海から離れた場所まで…」と言葉を失っていました。木製の小さな船ではありません。大きな、おそらく鉄?(船の素材についてはわかりませんが、木の小さなものでないのは確か)でできた船です。ここまで、この船を運んできた津波の威力のすごさに、改めで驚かされました。陸前高田は、犠牲者が多かった都市の1つです。一面がれきだらけになった街の光景を、今でも思い出します。

記者さんたちが、取材ができる避難所はないか?と聞いて欲しいというので、周囲にいた地元の人に聞いてみると、高い所にある高田一中に大勢避難している、という話しを聞いたので、そこに向かいました。受付を済ませ、体育館の方に案内されてインタビューを開始しました。すると、この時は、おそらくまだ一種の興奮状態にあったのか、被災者の方々の方から寄ってきて、話をしてくれることが多くありました。また、周囲の人に話しかけても、拒否する方はほとんどいませんでした。皆、体験を話したい、海外にこの状況を伝えて欲しい、と話していました。

ここで多く聞いたのが、逃げる途中で自分のすぐ後ろにいた一緒に逃げてきた家族や、近所の人が、振り返るといなくなっていた、という話しでした。また、波がくるというよりも、がれきの壁が迫ってくる感じだった、ということも聞きました。ある中年の女性が、「犬を抱いて逃げて来たのに、後ろにいたおばあちゃんがいつの間にかいなくなっていた。犬を助けたのに、おばあちゃんを助けられなかった。私はひどい人間なんだろうか。」と涙ぐんでいました。これには記者さんも思わず涙していたし、私も涙が出そうになりましたが、ここで泣いては仕事にならないのでは、と思いなんとか気持ちを抑えました。こういう、すぐ近くで逃げていた近所の方が途中でいなくなった、申し訳ない、など、自分を責めている方も多くいましたが、それでも、まだこの時は、人に話すことはできていたようでした。

悲惨な話ばかりではなく、今後の教訓となる話や、いいお話も聞きました。ある老舗の食品企業では、昔から「大きな地震がきたら、すぐ裏の山の方に走って逃げろ。山に登れ。」ということが伝わっていて、その通りの行動を取ったら、犠牲者が誰もいなかった、ということでした。この時に、教訓を次世代に語りつぐことの重要性を知りました。

また、ある海の近くにあった工場で働いてた女性も、「地震の後、なんとなくどうすればいいか、うちに来るまで戻った方がいいかな、とか考えながら、他の数名と残ってダラダラしていました。すると、社長が入ってきて、何をしている、早く山の方に逃げなさい、と怒鳴ったのです。それで急いでとにかく逃げました。津波が来たのはその数分後で、おかげで命を救われました。」という話しもありました。リーダーシップが重要だということも、認識させられました。

また、この時に、市長さんが視察に来ていましたが、憔悴しきった顔をしていました。やはりご苦労が多いんだろうと思っていると、被災者の方が「ご家族が行方不明」と教えてくれました。昨年の4月、再度姿を拝見いたしましたが、表情が明るくなっていて、再建の希望に燃えている様子が見られて、「よかったな」と思いました。

この後、大船渡の方を少し見た後、気仙沼に向かいました。実はこの辺の記憶がちょっとあいまいです。でも、気仙沼に行ったのは確かだと思います。海岸の方に行くにはもう時間がなかったので、別の避難所を訪ねて取材することになりました。

たしか、途中だったと思いますが、福島の原発事故のニュースが流れてきました。たしか、2つ目の原子炉の爆発の時だったのではないかと思います。私の予測ですが、フランスの記者さんが多く来ていたのは、フランスも原発を推進している国だからなのではないか?と思います。しかし、このニュースが流れたとき、衝撃的な話を聞きました。フランス人の記者さんが、「実は、本国から退去命令が出ているので、明日は東京に戻ってフランスに帰る準備をする。」という話していました。「東京で働いているのか?」と聞いたら、「普段は北京支局で働いている。」そうで、北京なら北京に戻れば大丈夫なのでは?と聞くと、「北京も危ないと言われた。」と言うのです。とにかく、日本の周辺の支社にいる者は全員、本国に戻るようにと言われているそうで、この直後にもう一件問い合わせがあった、フランスのテレビ局の取材の方々も、同じことを話して、キャンセルしました。万が一爆発があったら、日本だけでなく、周囲の国にいても危険かもしれないということだったようです。アメリカなどでも、かなり広範囲にわたって、退去命令を出しているようでした。それに引きかえ、日本はどうでしょう?正しい情報が伝わっているとは、言えない状況なのではなかったかと思います。幸い、大爆発は免れましたが、もしかすると、大惨事になっていたかもしれません。それを日本政府でなく、海外の政府が先に予想して避難命令を出していた、というのは、ショックな出来事でした。このような対応の差も、海外の記者さんたちの「日本は情報を隠す国だ。」という印象につながったようです。

気仙沼のこの避難所は、陸前高田の中学校と比べると、設備がいいとは言えませんでした。たしか、どこかの高校だったと思いますが、担当者の方が、「ストーブの数もたりないし、食べ物も十分あるとは言えない」、と話していました。市役所の方ではなかったかと思いますが、「夜寒いとか文句などは自分のところに来る、自分もなんとかしてあげたいが、どうすることもできず、ほんとにつらい。」ということをお話ししていました。自分の母親の行方が分からないが、自分のことより避難所のことを優先しなくてなならず、正直いうと、それもつらい、と心情を吐露されていました。これも記者さんや私もかなりつらい気持ちになり、避難所でも設備などは様々で、運営は大変なのだということがわかりました。

 

3月下旬には、一度キャンセルしたフランスのテレビの記者さんたちから、取材の申し出があったということでしたが、理由は忘れましたが、多分子供の小学校入学や、延期になっていた卒園式などのこともあり、現地にはいかず、取材の翻訳のお手伝いをホテルですることになりました。現地には、以前から知っていたJICAの監理員を普段している通訳者さん2名に行っていただきました。この方々が取材したビデオの翻訳の手伝いでしたが、原発事故に対する意見、大勢が津波でなくなった避難所で生き残った方の話などがありました。

 

そして、4月上旬に、再度フランスのビデオ作家2名が、被災地の取材をしたいと連絡してきたという話しが、地元通訳エージェントからありました。朝の2:30から夜9:00までの取材を3日続けるという大変なものでしたが、エージェントの方で運転手と車を準備し、通訳に行くことになりました。今までは、ほとんど直できた取材のようなものでしたが、こちらは正式な通訳として雇われた案件になるので、だいたい通常の料金を支払っていただける、という話しをしました。

このフランス人2名が、人間的にどうかと思うような人たちでした。被災地でビデオや写真は撮影するものの、取材は私と運転手さんにまかせっきり。避難所で話をして取材できるような対象が見つかったら、車やレストランで休んでいる自分たちに連絡しろ、という話しでした。「なんか、やだな」と思いながらも、仕事なので続けていました。南三陸陸前高田、釜石、大船渡、宮古、大槌などに行きました。大槌の海の近く、家があったと思われる、今は破壊されてしまったところで、何かを探している若い女性がいました。話を聞きたいというので、ちょっと話しかけてみたら、「病院で働いていた兄が行方不明なんです。」ということでした。憔悴しきった表情で、とても話を聞けないと思ったので、そのことを話すと、それでも聞いてこいと言われました。普通の記者さんなら、自分から話しかけて、それを通訳するのですが、全部交渉は私にやらせていました。やはり、つらくて話せないということだったので、そこで取材はやめました。

三陸の避難所にいって、取材をすることになりましたが、この際も自分たちは車の中で私となぜか運転手(若い男性でした)さんが、話を聞きにいくように指示されました。この頃になると、話をするのがつらいという人が増えていて、下手に話しかけると気分を害する方もいました。同じ東北の出身というと、少し柔軟になる方が多かったので、最初にそれを話すようにして、なんとか何名からか話を聞くことができました。南三陸では、大きな体育館と学校の避難所2か所を訪ねました。大きな避難所の方では、あまり話したいという人がいませんでしたが、なんとか数名からお話を聞けました。自宅の二階に避難したが、津波の水が二階にいる自分の肩くらいのところまで来ていて、夫婦2人で、一緒にいたおばあちゃんを方におぶって、水が引くまでおぼれそうになりながら過ごした、というお話をきけました。学校の方では、お兄さんが形態で津波が来る様子を撮影した、という方もいました。その若い男性の話では、病院の3階まで水が来て、寝たきりのお年寄りなどはどうすることもできず、窓からベッドごと流されてしまった、という悲惨なこともあったそうです。このような話を聞いてもっていったのに、その2名は、「インパクトが足りない」とか言って、記録したりするようなそぶりもみせず、私と運転手の努力が足りないなどということも言っていました。

結局、もう一度陸前高田の避難所を取材することになりました。以前いた方々の一部もまだ残っていたりで、再開を喜んだ方もいましたが、残っている方のほとんどが、あまり話をしたがらない状態になっていました。いい話がある方は、話してくれましたが、そういう話は、「インパクトが弱い。」とそのフランス人に言われてしまいました。すると、「黙っているのがつらいので、話を聞いてほしい。」という女性の方がいました。ちょっとほっとして、少し話を聞いてみると、「6歳の娘が亡くなった。とてもつらいんだけど、老いた義母やほかの人の手前もあって、気持ちが吐き出せない。誰かに話を聞いて欲しい。」ということを話していました。これには、私も同じ年頃の子供を持つ身として、どんなにつらいだろうかと思いましたが、「ビデオに撮って話していただくことになる。」と伝えたところ、顔と名前が出るのが嫌なので、と辞退されました。

すると、1名、それでもいいから話したい、という女性が現れました。でも、ここではなく、あまり人のいないところで話したい、ということだったので、それを伝えると、そのフランス人から、「民家を当たって、部屋を借りろ」と言われました。とてもいやでしたが、主旨を話すと、なんとか快く貸していただけるおうちの方が見つかり、和室を2時間貸していただけることになりました。

そこで、お話を伺いました。なんでも、その方は、以前から消防の訓練に積極的に参加していて、地震の少し前にも、消防団の方から「市の指定の避難所になっている体育館は、大津波があったら危ない。そういう場合は裏の神社に逃げた方がよい。」という話しがあった、ということでした。旦那様と障害のある弟さんがいたそうですが、その2人に、地震の後そのことを話して、なんとか神社に逃げるよう説得したそうですが、話を聞いてくれず、逃げるなら体育館で十分、というのでそのまま自分だけ神社に逃げ、2人は大勢が犠牲になった体育館に行って命を落とした、ということでした。やはり、もっと説得するべきだったのでは、ムリにでも神社に連れていっていたら、2人は生きていたのでは?と自分を責めているようでしたが、しまい込んでいた話ができて、よかった、ということも話されていました。話したくない人と、実は話してすっきりしたい人がいて、対応は難しいということを知りました。

このインタビューが撮れたので、満足したのか、とりあえず取材修了で、戻れることになりました。途中、1人のチーフっぽい人物から「悪いけど、君のことを悪者にさせてもらう。悪く思わないでほしい。」となんだかよくわからないことを言われました。ホテルに帰って、エージェントの担当者に料金の支払いの段になったら、なんと、「働きが悪かったので、全額払いたくない。運転手も腕が悪くて、道に迷って時間のロスをした。」と言い始めました。夜の2:30からまた同じ日の夜9:00過ぎまで働きました。何もしない2名に代わって、気を使いながらインタビューにふさわしい人を見つけ、インタビューもなんとかできました。それで、これはないでしょう、と思いました。運転手さんの方からも、連日話を聞いていた営業の方は、この2人の話を聞いて、激怒しました。いつも穏やかなこの方が、こんなに怒ったのを見たのは、これがはじめてでした。「料金はいりません。もう2度とかかわりたくないし、顔も見たくない!」と怒って、私と運転手さんと一緒に会社に戻りました。2人は、お金を節約できてよかった、というような態度でした。翌日、社長が「すまなかった。嫌な思いをさせて、ごめんなさい。」と涙を流して謝罪してくださって、会社の方からお金を出していただけました。私は申し訳ないとおもいましたが、こちらの会社には本当にお世話になっていて、今でもお仕事をコンスタントにいただいています。しかし、このような人物が取材に来ること自体が驚きで、以前の記者さんたちの真摯な態度とは、まるで違っていました。このようなヤツもいるんだな、と思いました。幸い、取材や視察でこんな人間にあったのは、この2名だけでした。

 

長くなってしまいました。4月上旬までの海外からの取材の通訳の経験の概要は、だいたいこんな感じでした。そのほかにも、色々な話を聞いたり、経験したこともありますが、多すぎてここには書ききれないので、また何か機会があったら書きたいと思います。その後の被災地視察通訳の経験などについても、後で書きたいと思います。次の2では、他に、家での経験とも合わせて、教訓として学んだことについて書きたいと思います。